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真珠講座2『養殖真珠の歴史』

赤松 蔚 

真珠講座1 で述べたように、人類は非常に古くから天然真珠との関りを持ってきた。天然真珠との関りが深まれば深まるほど、「真珠は一体どうして出来るのだろうか」と考えるようになり、やがて「真珠はどうすれば人の手で作ることが出来るか」と考えるのは当然の成り行きであろう。今回は真珠の成因、諸外国における真珠養殖の試み、そして日本における真珠養殖の試みとその成功について述べる。

1.真珠の成因

「真珠はどうして出来るのか」という成因については古くから色々な考えがあった。最も古いのは涙説で、天使や水の精、愛しい人の涙が貝の中に入って出来るというものである。かつてアメリカの博物館スタッフが鳥羽の御木本真珠博物館を訪れ、「天然真珠は人魚の涙である」と言った際、真珠博物館の松月館長がすかさず「養殖真珠は(それを作った)人の涙である」と切り返したのにはさすがと思った。涙説に次いで古いのが露によるというもので、貝が水面近くまで上がってきて貝殻を少し開けている所に露が落ちて真珠になるというこれもなかなかロマンチックなものである。古代ローマの博物学者プリニウスによれば、新鮮な空気と温暖な日光を受けた清浄な露が貝の体内に落ちると良い真珠になり、その反対では真珠の色彩光沢は落ちる。曇天に生じた珠は淡色で、海水よりも日光、天候などの影響が大きいと述べている。この露説は1世紀頃から11世紀頃まで信じられていたようである。これ以外にも稲妻の閃光によって出来るという稲妻説もあった。真珠成因について初めて科学的に記述されたのは1554年で、フランスのRondeletが「真珠は哺乳類に病的にできる結石と同じものが貝類に出来たものである」と論じた。

16世紀に入ると顕微鏡が発明され、それ以来真珠の成因についても急速に科学的なものへと発展していった。17世紀から20世紀初頭にかけて色々な真珠成因説が出されたが、その主なものは次の通りである。
 1)貝殻を形成する体液が凝縮して出来る。
 2)貝の内部的原因によって凝縮物が形成され、その周囲に貝殻物質が沈着されて出来る。
 3)排卵出来なかった卵細胞が刺激となり、その周囲に出来る。
 4)貝殻物質が砂粒物質の上にそれに被さるようにして分泌されて出来る。
 5)貝殻が傷つけられたり、または孔を穿たれた場合、その結果として真珠が出来る。
 6)寄生虫が原因となって出来る。
 7)貝殻と軟体部の中間、又は外套膜に突出している外皮組織の袋の中に出来る。

1858年ドイツのヘスリング(von Hessling)が真珠形成には真珠袋が必ず存在し、真珠は真珠袋の分泌作用によって形成されると唱えた。この真珠袋の考え方が後に養殖真珠を成功へと導くのである。

2.諸外国における真珠養殖の試み

写真1:仏像真珠

写真1:仏像真珠

前述のように真珠形成に関する研究は16世紀頃から盛んに行われるようになるが、これらの研究が実際の真珠養殖研究に結びつくことはなかった。ヨーロッパのこうした研究とは全く無関係に真珠養殖が世界で最も早く具体化したのは中国の仏像真珠であることは非常に興味深い。中国では11世紀頃から淡水産二枚貝(主としてカラスガイ)に鉛で仏像などを象った物体を貝殻と外套膜の間に挿入し、物体表面が真珠層で覆われるとそれを切り取り、仏具や装飾品に使用されていたと言われ、このことは1167年に発行された「文昌雑録」に記事になっている。その後この技術は改良され、13世紀には蘇州の太湖湖畔に位置する寒村を中心に、貝殻で作った玉や薄い鉛製の仏像などを核にして盛んにいわゆる半形真珠が養殖された。この仏像真珠は1734年中国に滞在したフランス人神父によって本国に伝えられ、フランスとイギリスで1735年に刊行された水産関係の書物によって中国の養殖真珠の全貌が全ヨーロッパに紹介された。その結果ヨーロッパでは18世紀以降多くの学者がこの仏像真珠を手本に真珠養殖の研究を行った。そのうち有名なものをいくつか次に列挙する。

先ずリンネの真珠である。スウェーデンの科学者リンネ(Carl von Linnaeus 1707‐1778)は1748年スイスの解剖学者フォン・ハラーに手紙を送り、「私は真珠が貝殻の中で出来、成長する方法を考案しました。5、6年後にはソラマメ位の真珠が出来るであろう」と言っている。彼は1761年近くの川に生息する二枚貝を使用し、貝殻に小さな穴を開け、粒状の石灰や石膏を貝殻と外套膜の間に挿入し、真珠養殖実験を行った。この実験は原理的には中国の仏像真珠と同じであるが、仏像真珠のように貝殻に付着したものではなく、真円真珠を作ろうとして、T字型の金属ホールダーを球に固定し、これを貝殻内面に挿入し、貝殻内面から遊離させている。リンネが作った真珠は現在ロンドンのリンネ学会に保存されている。

1884年Boucheon-Brandely はタヒチ島で真珠貝に直径半インチ位の孔を数個開け、コルク栓を通して貝殻又はガラス製の丸い球を真鍮の針金に固定し、海中に入れておくと、球は1ヶ月後に真珠層で覆われていることを実験した。クロチョウ真珠養殖は1914年御木本が沖縄の石垣島で始めたのが世界初といわれているが、タヒチではこのBoucheon-Brandelyが世界初と主張している。

写真2:半円真珠

写真2:半円真珠

フランスのルイ・ブータン(Louis Boutan)はアワビの貝殻に小孔を穿ち、外套膜との間に小球を挿入して孔を塞ぎ海中で養い、6ヶ月で十分厚みのある真珠が得られたと報告している。ブータンは後に御木本養殖真珠が本物か偽物かで争われたパリ真珠裁判に証人として呼ばれ、1924年養殖真珠は本物という鑑定結果を出したボルドー大学の教授である。

イギリス人サビル・ケントはオーストラリア・タスマニア州政府の招きにより漁業調査官として渡豪、彼は真珠養殖研究も手がけ、1890~1891年シロチョウガイで大きな半形真珠を作り、始めは驚くほどの高値で売れたが、結局収支償わず中止したとの報告がある。御木本幸吉がアコヤガイを使用して5個の半円真珠に成功したのが1893年であるから、サビル・ケントの方が2~3年早く半形真珠養殖に成功していたことになる。サビル・ケントは真円真珠の発明者争いでこの後にも登場する。

残念ながらこの仏像真珠を手本にどれだけ努力しても、仏像真珠の延長線上に天然真珠に匹敵するような養殖真珠は存在しなかったのである。天然真珠は偶然外套膜の上皮細胞小片が何らかの原因で外套膜から剥がれて貝体内に落ち込み、そこで真珠袋(パールサック)が形成され、その袋の中で真珠が出来るのである。つまり真珠袋の形成なしに真珠が出来ることはありえないということである。仏像真珠は貝殻内面に貼り付けられた半形の核表面に貝殻と同じ真珠層が形成されるだけで、いわば貝殻真珠層に出来た瘤状の物質に過ぎないのである。

3.日本における真珠養殖の試みとその成功

日本における真珠養殖の試みは御木本幸吉から始まった。御木本幸吉は1858年(安政5年)志摩国鳥羽浦の大里町で「阿波幸」といううどん屋の長男として生まれた。13歳ですでに家業を手伝う傍ら、青物行商も始めていた。20歳になった1878年(明治11年)東京、横浜へ視察旅行に出かけ、そこで自分の故郷の天然真珠が高値で取引されているのを見て、真珠養殖を思い立ったと言われている。幸吉は1888年(明治21年)志摩郡神明浦に初めて真珠養殖場を設け真珠貝の養殖を始め、その後真珠養殖も手がけていった。真珠養殖には当時の大日本水産会幹事長柳楢悦から東京帝国大学の箕作佳吉博士を紹介された。箕作博士は1890年(明治23年)増殖博覧会の席上で幸吉に真珠の話をし、真珠養殖は理論上可能であるが、これまでだれも成功していないことを話した。これを聞いて幸吉は養殖真珠にチャレンジする決心をした。その後幸吉は幾多の苦労を乗り越え1893年(明治26年)遂に5個の半円真珠養殖に成功した。

御木本幸吉も他の真珠養殖研究者同様、中国の仏像真珠を手本として半形真珠の養殖からスタートさせたようである。ミキモト真珠養殖場に数枚の仏像真珠付きの貝殻が残っているということは、おそらく御木本幸吉も日々これを眺めながら懸命に真珠作りに励んだと想像される。しかしどれだけ仏像真珠を手本にがんばっても最終目標である真円真珠(全体が真珠層で覆われた真珠)に到達出来ないことは既に述べた通りである。

1800年代後半から1900年代初めにかけて真珠袋の研究がドイツ、フランスを中心に多くの研究者によって行われた。特にドイツのヘスリング、アルバーデスはこの真珠袋形成理論を明確にした。当時この真珠袋理論は東京帝国大学の箕作博士の元にも伝わっており、この理論は御木本幸吉も教わっていたはずである。そしてここに仏像真珠を経由せず、いきなり真珠袋の研究から真珠養殖研究をスタートさせた2人の日本人、西川藤吉と見瀬辰平が登場する。西川は1874年(明治7年)大阪に生まれた。1897年(明治30年)東京帝国大学動物学教室卒業と同時に農商務技手として水産局に勤務。この頃から御木本と関わりを持つようになるが、これはおそらく御木本の養殖場で発生した赤潮調査がきっかけであろう。西川は1903年(明治36年)御木本幸吉の次女峯子と結婚する。その後大学の動物学教室に復帰し、箕作博士の弟子として神奈川県三崎臨海実験所で真円真珠養殖の研究に専念する。1907年(明治40年)外套膜の小片を作り、これを貝体内に移植して真珠袋を作る方法を発明した。残念ながら西川はこの発明から2年後の1909年(明治42年)35歳の若さでこの世を去った。西川藤吉が発明した真珠養殖法は1917年(大正6年)特許第30771号となり、「西川式」あるいは「ピース式」と呼ばれ、現在の有核真珠養殖の基本技術となった。

一方見瀬辰平は1880年(明治13年)三重県に生まれた。11歳の時見瀬弥助の養子となり、船大工などの修行をしていたが、1900年(明治33年)頃から志摩郡の的矢湾で真珠の研究を始めた。そして上皮細胞の小片を直径0.5mmほどの核に付着させ、これを外套膜組織内に送り込むようにした注射針を考案し、1907年(明治40年)特許第12598号「介類ノ外套膜組織内ニ真珠被着用核ヲ挿入スル針」を得ている。見瀬はその後も研究を続け、1920年(大正9年)に特許第37746号を得たが、この方法は外套膜細胞を注射器で貝の体内に導くもので、「誘導式」と呼ばれている。

御木本幸吉も1902年(明治35年)元歯科医の桑原乙吉を迎え入れ、本格的に真円真珠養殖研究に着手した。そして1917年(大正6年)貝殻を球状にした核を外套膜で完全に包んで細い絹糸で縛り、貝体内に挿入する「全巻式」という方法で特許を出願した。一般社団法人日本真珠振興会はこの3人の功績を称え、1906年(明治39年)を真円真珠発明の年に定めている。

前述のように西川藤吉が仏像真珠養殖から入らず、いきなり真珠袋の研究からスタートしたのは、彼の師匠である箕作博士がすでにヘスリングの真珠袋理論を十分に理解していたためと考えられる。不思議なのは見瀬辰平の研究で、彼がもし独自に仏像真珠を経由せずに真珠袋に基づいた真円真珠作りのゴールに到達したのであれば、西川に決して劣ることない天才と言えよう。真円真珠養殖には真珠袋が不可欠であるということはドイツのアルバーデスが淡水産二枚貝で実験してその理論を1913年に確立したが、その時日本ではすでに真円養殖真珠は事業としてスタートしていたのである。

写真3:西川のオーストラリア特許

写真3:西川のオーストラリア特許

日本が世界で初めて真円真珠養殖に成功したということに対し、1978年オーストラリアのデニス・ジョージという人物が異議を唱えた。彼は論文の中で真円真珠養殖技術はオーストラリアのサビル・ケントが確立したのだと発表した。そして西川、見瀬が開発した技術は、西川及び見瀬の義父が仕事でオーストラリアを訪れた際、サビル・ケントの技術からヒントを得たものであると主張したのである。そして西川、見瀬が仏像真珠養殖から入らずにいきなり真珠袋研究からスタートさせたのがその証拠であるとも主張している。しかしよく調べてみると確かにサビル・ケントは前述のように半円真珠養殖には成功しているが、真円真珠養殖成功に関する資料は一切なく、すべてデニス・ジョージの推測であることが判明した。しかしデニス・ジョージの論文は世界中に広がったので、いつの間にか真珠の発明者はサビル・ケントと記述した本がかなり出回っている。ここにもう一つ真円真珠の発明者はサビル・ケントではないという証拠がある。それは西川藤吉の死後、息子の西川新吉が真円真珠養殖法を特許として1914年7月24日オーストラリアで申請し、翌1915年12月7日認可されている。オーストラリアで最初に真円真珠養殖技術が発明されていたのなら、なぜこの西川の特許申請時にクレームをつけなかったのか。この特許がすんなり認められたということは、オーストラリアには類似の技術は存在しなかったと考えるのが妥当であろう。

写真4:フランスの真珠裁判の判決文

写真4:フランスの真珠裁判の判決文

真円真珠作りに転じた御木本幸吉はその後順調に事業を拡大し、1919年養殖真珠をロンドンで天然真珠より25%安い価格で販売を始めた。御木本はこれまで半円真珠をヨーロッパ市場に出していたが、これは完全な真珠とは見做されず、価格も安いので、一種特別な商品として扱われていたようである。そこに天然真珠と変わらない養殖真珠が突如出現したので、「養殖真珠は本物か偽物か」という論争が起こった。そしてこの論争はパリに飛び火した。天然真珠を扱うパリの業者組合は養殖真珠が模造真珠であるという大キャンペーンを展開し、不買運動を起こした。これに対し御木本パリ支配人はこの運動は不当であると民事裁判に訴え、養殖真珠は本物か偽物かということがいわゆるパリ真珠裁判で争われることになった。そして前述のボルドー大学のブータン博士、オックスフォード大学のジェムソン博士といった当時の一流真珠研究者が鑑定を行い、養殖真珠は天然真珠と何ら変わるところがないという結論を出した。裁判は1924年の判決により、養殖真珠は天然真珠と同じ扱いを受けるようになった。こうして日本の養殖真珠は本物であるという認知を受けて以来、世界各国に販路を拡大していった。このように日本の養殖真珠を世界の市場に広め、養殖真珠を一大産業として発展させた御木本幸吉の功績は非常に大きいものがある。

1919年御木本幸吉がヨーロッパの市場に出した真珠は養殖期間が3~5年、養殖された7ミリの真珠には4ミリの核が入っていたと言われている。ということはこの真珠は4ミリの核に1.5ミリの真珠層が巻いていたことを意味する。これほどまでの養殖真珠であったからこそ、パリの真珠裁判でも養殖真珠は天然真珠と変わるところがないと判断されたのである。それからわずか100年足らずの間に養殖真珠がここまで悪い方に変わるとは誰が想像したであろうか。ライト兄弟が飛行機を発明したのが1903年。それから110年、現在何百人もの乗客を乗せて空を飛ぶのも飛行機。エディソンが電球を発明したのが1897年。それから116年、地上の隅々まで煌々と照らすのも電球。同じ名前を使っていながら良くここまで進歩したものだと思う。一方養殖真珠はどうであろうか。日本で真円真珠が発明されたのが1906年。それから107年、現在は養殖期間7ヶ月、真珠層の厚さがわずか0.2mmという真珠まで市場に出ている。同じ真珠という名前を使っていながらよくここまで退化したものかと驚かされる。養殖真珠はこうあってはならない。養殖真珠は思い出や、物語が込められるような宝石でなければならない。ここらで今一度「養殖真珠とは」という原点に立ち帰り、養殖真珠を見直す時期に来ているように思われる。(つづく)

宝石学会(日本)

埼玉県立自然の博物館埼玉県立自然の博物館

平成25年の宝石学会(日本)講演会・総会が6月15日に埼玉県・秩父郡の埼玉県立自然の博物館講堂にて、また見学会が16日に開催されました。

今号では懇親会および見学会の様子と、発表のありました一般講演の内容を要約してご紹介します(○:発表者)。

宝石学会(日本)は「科学者と、宝石界との良き協力関係を生み出し、両者が有無相通じ合うことによって宝石学を振興し、その成果を還元する公共的な媒体となる(趣意書の一部抜粋)」ことを目的として、昭和49年(1974年)に設立され、上野の国立科学博物館で創立総会が行われました。その後、毎年一回の講演会・総会が開催され、今期は会計年度で第42期目を迎えます。

本年度の講演会および総会はキャプションのとおり埼玉県立自然の博物館で行われました。同館は秩父鉄道が設立した「鉱物植物標本陳列所」の資料を引き継いで昭和56年(1981年)に開設された埼玉県立自然史博物館を前身としています。平成18年(2006年)に名称も新たにリニューアルされています。本館は風光明媚な長瀞渓谷にほど近く、木々の緑も深く学術的な会合を行う環境としては最適です。

会館の講堂は収容人数が120名と広く設備も充実しており、講演会の会場としては申し分がありません。講演会の参加者は総勢70名で内訳は鑑別技術者を中心に業界団体職員、大学・研究職者、宝飾業者およびその他と本学会の趣意である“科学者と宝石界との良き協力関係・・・”に則したものと言えそうです。

15日(土)は午前10時から受付が開始され、10時半から一般講演14題が行われました。昼食後の総会においては今期の会計報告、収支予算が報告され、承認を得ました。また、宮田会長が評議委員会の刷新とさらなる学会の発展を想念し、自ら会長職を辞すこと、選挙委員会を設けて評議員選挙を行うことを報告しました。さらに、本学会の設立当初から会長として長年ご活躍いただいた砂川一郎東北大学名誉教授の訃報が伝えられました。

一般講演は質疑応答を含めて1テーマにつき20分で行われました。講演内容の内訳は、ダイヤモンド関連2題、コランダム関連2題、色石鑑別関連2題、真珠関連3題、産地関連2題およびその他研究3題でした。それぞれの各項目の中でも鑑別技術に関する内容が多く、鑑別技術者が多く参加している本会の会員構成を如実に表していました。そのような中でもジュエリーを歴史的見地で捉えた報告や結晶を素材としてその有用性を論じた発表も見られ、講演会の裾野の広がりを感じさせました。中央宝石研究所からは、研究室の江森所員と久永所員がそれぞれの日頃の研究成果を発表しました。発表内容につきましては本誌上で順次掲載の予定です。

今年度の一般講演の概要は以下の通りです。

一般講演 1
埼玉県内に産出する鉱物・宝石 ー天然記念物緊急調査報告書よりー

聖徳大学川並弘昭記念図書館   ○ 林  政彦
早稲田大学創造理工学部 環境資源工学科   山崎 淳司

演者である林氏が1999年~2001年に埼玉県教育委員会より委託された委員として実施した天然記念物緊急調査の報告書を元に埼玉県内で産出する鉱物について報告しました。埼玉県内で産出する鉱物は現在199種あり、ひすい輝石、方解石、スピネル、アンドラダイトガーネットなども含まれます。また、秩父も登録されたジオパークについても紹介しました。

一般講演 2
いわゆる「トラピッチェ」と呼ばれるダイヤモンドと最近観察された珍しいダイヤモンドについての報告

(株)東京宝石科学アカデミー   ○ 渥美 郁男
    西村 文子

トラピッチェダイヤモンドとして販売されている3方向に放射状模様を示す薄片状に研磨されたダイヤモンド(ジンバブエ産)についての研究結果を報告しました。放射状を呈するクラウド部はDiamond ViewTMなどで黄緑色に蛍光し、電子顕微鏡による観察において針状のものと丸みのある六角形の2種類があるとされました。また、東大大学院理学系研究科の協力の下これらの結晶方位の決定を試みました。

一般講演 3
非開示で持ち込まれた1ct upのCVD合成ダイヤモンド

発表中の久永所員発表中の久永所員

中央宝石研究所   ○ 久永 美生
    北脇 裕士/山本 正博
    岡野  誠/江森健太郎

非開示で鑑別機関に持ちこまれたものとしては最大級のサイズと思われるCVD合成ダイヤモンドについて報告しました。標準的な宝石鑑別手法では識別が困難ですが、DiamondViewTMによるルミネッセンス像の観察および各種波長によるフォトルミネッセンス分析が有効であるとしました。
*この発表は「CGL通信No.12」に詳述されておりますのでご参照ください。

 

一般講演 4
ベリリウム拡散加熱処理サファイア鑑別の現状

発表中の江森所員発表中の江森所員

中央宝石研究所   ○ 江森健太郎
    北脇 裕士
    岡野  誠

ベリリウム拡散加熱処理の現状について統計結果を交えながら報告しました。近年はコランダムに天然起源のベリリウムが含有されることが知られるようになり、処理の鑑別がさらに困難になっています。これらの識別方法について種々の例を挙げて詳細な発表がなされました。
*本研究の発表内容は次号以降掲載予定です。

 

一般講演 5
ミャンマー産ルビーのインクルージョンの特徴

株式会社モリス   ○ 森  孝仁

ミャンマーに現地法人を10年前に立ち上げ、今なおルビーの採掘を継続している演者が、実際に採取したNam-Ya鉱山およびMogok鉱山産ルビーの特徴について報告しました。一般にNam-Ya産のシルクは細く、糖蜜状組織は見られないものが多いのに対し、Mogok産のシルクは太くて細かく、糖蜜状組織は頻度高く観察されるとしました。また、市場が開放されたことで価格が高騰したため、モザンビーク産のルビーがタイ国境付近からミャンマーにもたらされているとの報告がなされました。

一般講演 6
新しく処理されたブルーサファイア

Hanmi Gemological Institute, Laboratory   ○ 李 宝炫 (Lee Bo-Hyun)
(Hanmi Lab)   崔 賢珉 (Choi Hyun-Min)
    金 永出 (Kim Young-Chool)

韓国で開発中のコランダムの新しい処理について韓国の鑑別機関に所属する演者が報告しました。この新しい処理はロシアで使用されていたダイヤモンド合成用のHPHT装置を用いた高圧下での加熱処理です。通常の加熱処理で効果が得られなかったサファイアを原材にして透明度の良いブルーを得ているとのことです。詳しい処理の情報は公開されていませんが、鑑別可能な特徴として赤外分光で3040~3050cmに吸収が現れると報告しました。

一般講演 7
スピネルのフォトルミネッセンスとラマン分光

株式会社彩   ○ 中島 彩乃
日独宝石研究所   古屋 正貴

近年スピネルの人気の高まりもあり、市場に各種合成法のスピネルや加熱処理スピネルが確認されるようになっています。演者らはフォトルミネッセンス分析とラマン分光法を用いてこれらの比較検証を行いました。フォトルミネッセンス分析において、天然は638.5nmにシャープなピークが見られ、合成には687.3nmにブロードなピークが観察されるとしました。また、天然スピネルを加熱すると本来の細かなピークが弱まったり、消失することが判りましたが、色調に大きな変化は認められないと報告しました。

一般講演 8
パラサイト起源のペリドットの特徴

日独宝石研究所   ○ 古屋 正貴
Palladot Inc.   チャールズ M. エリアス

パラサイト中のペリドットと地球起源のペリドットの比較検証の結果が報告されました。サンプルはAdmire隕石中に含まれていたペリドットが使用され、通常の宝石学検査に加えて蛍光X線分析およびFT-IR分析が行われました。パラサイト起源のペリドットは周囲の金属部と独特な針状インクルージョンを含有し、偏光下で強い歪が認められました。比重はパラサイト起源が大きくなる傾向があり、成分分析では地球起源より、Ni(ニッケル)分が低い傾向にあるとしました。

一般講演 9
ルビー、スピネルおよびフォルステライト結晶の発光現象

東洋大理工   ○ 勝亦  徹
    相沢 宏明
    小室 修二
東洋大院工   佐久間 崇

演者らはセンサ応用を目的として各種の蛍光体結晶の結晶育成と結晶評価を行っています。
今回、Cr(クロム)やMn(マンガン)を不純物として添加したルビーやスピネル、フォルステライトをFZ法で育成し、市販のベルヌイ合成ルビーを含め、加工およびX線照射に伴う発光の有無と発光スペクトルを測定しました。Cr添加の発光は紫外~緑色光で励起した蛍光と蛍光スペクトルと同様のスペクトルで、Mn添加のスピネルやフォルステライトからはX線励起による発光が観察でき、それぞれの蛍光スペクトルと良く一致したと報告しました。

一般講演 10
南極大陸セールロンダーネ山地産アマゾナイトと他の産地との識別

ジェムリサーチジャパン株式会社   ○ 福田 千紘
    宮﨑 智彦
島根大学総合理工学部 地球資源環境学科   亀井 淳志
    赤坂 正秀

昨年報告した南極産のアマゾナイトについて、薄片を作製し、内部組織の観察、EPMAを用いた定量分析および面分析の結果が新たに報告されました。それぞれの産地から産出したアマゾナイトの内部組織は異なった特徴が観察され、EPMAによる面分析の結果、南極産アマゾナイトのRb(ルビジウム),Sr(ストロンチウム),Cs(セシウム),Fe(鉄),Pb(鉛)の含有量分布は、Rb,Sr,FeはK(カリウム)と似た挙動を示すが他の元素はあまりラメラ構造に影響されなかったと報告しました。

一般講演 11
聖書の中の宝石

お茶の水女子大学大学院 人間文化創成科学研究科 比較社会文化学専攻   ○ 下村 道子

大学で比較社会文化学を専攻する演者によって聖書中の宝石についての報告が行われました。聖書に記載されている祭司の聖なる祭服に留められた12種の宝石について、この宝石の名前と順序が聖書の版によって異同があることが具体例を挙げて詳細に述べられました。
一例をあげると16世紀に英訳された「ジュネーブ版聖書」と17世紀の英国王ジェームズⅠ世の「欽定訳聖書」と現在の「ニューインターナショナル版聖書」では、胸当ての最初の宝石はそれぞれ、ルビー、サルディウス、ルビーとなっておりそのほかにも違いがあるとしました。

一般講演 12
真珠の反射分光スペクトル測定における干渉色の影響についての考察

真珠科学研究所   ○ 山本  亮
    南條沙也香
    齋藤 友恵

真珠を分光測定する際に、反射分光スペクトルには反射干渉色の影響が出現するとの報告がなされました。ゴールド系真珠の着色の有無について分光分析が行われますが、一部の真珠に着色の有無が判別できないものがあります。これらの真珠には干渉色が強く現れる特徴があり、実体色の影響を受けにくい反射干渉色が分光スペクトルに影響しているのであれば検査の際に注意しなければならないと報告しました。

一般講演 13
真珠と模造真珠の干渉色の発現の違いとその要因についての考察

真珠科学研究所   ○ 矢崎 純子
    小松  博

真珠、模造真珠を拡散光源に近づけた際の色の表れ方の相違についての考察が報告されました。雲母にチタンコーティングして作られた真珠箔を樹脂に混ぜてガラスに塗布して45度の角度から白色光を当てると真珠層薄片と同じように反射干渉色と透過干渉色の補色が観察できますが、真珠箔を塗布した模造真珠にはテリの良い真珠に拡散光を近づけた際に現れる同心円状の縞模様が見られないとしました。

一般講演 14
バイオレット系真珠の特性とその出現機構についての考察

真珠科学研究所   ○ 庄司 文香
    牧野  翠
    小松  博

一部のクロチョウ真珠にみられる370nmと500nmの特有の吸収について報告しました。
これらは貝殻外層の稜柱層に含有されるポルフィリン類や真珠袋の細胞の分泌異常が関与していると推定され、蛍光分光測定や紫外線ライトによる蛍光検査が鑑別法として利用できるとされました。

懇親会

懇親会の様子懇親会の様子

1日目の講演会終了後、発表会場に隣接する老舗の観光旅館「養浩亭」に場所を移し、懇親会が行われました。和やかな雰囲気の中、立食パーティの形式で行われ学会参加者同士が交流を深めたり、質疑応答時に質問できなかったことなどを熱心に話し合う姿も見受けられました。

 

見学会

2日目は、講演会会場となった埼玉県立自然の博物館と秩父鉱山前の河原において見学会が行われました。
自然の博物館は、「過去から未来へ埼玉3億年の旅 そして自然と人との共生」というテーマに沿い地質展示と生物展示がされています。

虎岩虎岩

地質展示では鉱物・岩石・地層・化石が古い方から新しい方へ順に並んでいて、長瀞の変成岩などの岩石が直接手で触れることができます。また、巨大な化石の骨格復元模型の迫力ある姿を見ることもできました。
一方の生物展示では平地や山地に住む動植物のジオラマが本物のように秩父の自然を再現しています。 さわれる剥製コーナーではイノシシ、キツネ、タヌキ、ノウサギ、テンやカラスなどを直接さわることができ、毛並みの違いを体感できます。
館外には「日本地質学発祥の地」の記念碑があり、少し足を運べば、岩畳(地下20~30kmの深部で変成された結晶片岩)が広がっている所や虎岩(茶褐色のスティルプノメレンと白色の石英・長石・方解石とが折り重なって褶曲を見せることから名付けられた)が観察できました。

河原での採集の様子河原での採集の様子

午後は秩父鉱山前の河原で石の観察会が行われました。鉱山までの道のりは現地近くで道が細くなり大型バスが入れないため、マイクロバス2台に分乗しての行程となりました。現在の秩父鉱山は石灰岩を24時間体制で採掘していますが、かつては金を含め多種多様の鉱石が採掘されていました。金は近くの荒川流域で砂金としても産出しました。

 

さて、観察会の河原では、石を拾うばかりでなくハンマーを振るう方や初めから水の中に入れるように長靴を持参した方もいて熱心に鉱物を探されていました。金属鉱物としては黄鉄鉱(パイライト)が見つかり、宝石に近いものでは柘榴石(ガーネット)を採集。この他には磁鉄鉱(マグネタイト)や大理石も観察されました。 この地域は「ジオパーク秩父」として知られています。ジオパークとはジオ(地球)に親しみジオツーリズムを楽しむ場所のことです。
秩父地域は豊かな自然が残り、地質、鉱物の観察に相応しい場所であり、見学会に参加された方々にとっては、大変有意義な一日となりました。