CGL通信 vol47 「小滝川ヒスイ峡(小滝川硬玉産地)を訪ねて」
日本の石(国石)は日本鉱物科学会の一般社団法人化の記念事業の一環として考案されたものです。「日本で広く知られて、国内でも産する美しい石(岩石および鉱物)であり、鉱物科学のみならず様々な分野でも重要性をもつものを、「国石」として選定することにより、私たち日本人が立っている大地を構成する石について、自然科学の観点のみならず社会科学や文化・芸術の観点からもその重要性を認識するとともに、その知識を広く共有する」 という趣旨のもと取り組まれてきました。日本鉱物科学会のホームページにはヒスイが国石に選定された理由を以下のように述べています。「ヒスイ輝石やこの鉱物からなるヒスイ輝石岩は、日本列島のようなプレート収束域(沈み込み帯)の冷たい地温勾配の環境下でのみ形成されると考えられ、特に細粒でやや透明感をもったヒスイは宝石として高い価値を持ちます。ヒスイの産出は約5.5億年前より若い時代の蛇紋岩分布地域に限られ、藍閃石片岩や超高圧変成岩と同様、地球の冷却を示す岩石の一つです。ヒスイを敲(たたき)石として使ったものが、糸魚川市の大角地(おがくち)遺跡から発見され、縄文時代前期前葉の利用例として知られています。縄文時代に国内で加工された大珠は人類初のヒスイ加工の証であり、以後奈良時代まで利用された勾玉と共に日本史で重要な石であります。その後、日本からのヒスイの産出は忘れ去られますが、1938年に新潟県でヒスイが再発見され、翌年に学術論文として公表されます。そして現在では、新潟県糸魚川市をはじめ兵庫県養父市、鳥取県若桜町、岡山県新見市、長崎県長崎市など日本各地において野外で観察できるとともに、法律により保護されているところもあります。ヒスイの名は一般の人にも広く知られており、まさしく日本のシンボルであり、国石としてふさわしい石と認められます。」(注:日本鉱物科学会のHPには「ひすい」とひらがな表記されていますが、本稿では「ヒスイ」とカタカナで統一しています)
【小滝川でのヒスイの発見】
日本国内の縄文、弥生、古墳時代の各地の遺跡からヒスイ製の勾玉や大珠などが見つかっています。 これらのルーツは現在ではすべて糸魚川地域であると考えられています。しかし、以前は日本で見つかるヒスイは大陸から渡来したものと考えられていました。なぜならば日本国内にはヒスイの産地が見つかっていなかったからです。
1938年に小滝川の支流のひとつ土倉沢の出会い付近でヒスイが発見されます。この発見に大きな役割を果たしたのが相馬卸風氏といわれています。相馬氏は明治から昭和にかけて歌人、文芸評論家として活躍する糸魚川在郷の知識人です。一般には早稲田大学の校歌の作詞で知られています。相馬氏は高志の国(現在の福井から新潟にかけて)の姫である奴奈川姫がヒスイの首飾りをしていたという伝説から、そのヒスイは地元産ではないかと考えていました。奴奈川姫はあくまでも伝説の人物ですが、数多くの資料が残されており、糸魚川の人々にとって特別な存在です。市内には「奴奈川姫の産所」など奴奈川姫にまつわる伝承地も数多く、式内社(しきないしゃ)である「奴奈川神社」にも、奴奈川姫と八千矛命(やちほこのみこと=大国主命)がともに祀られています。市内各地には奴奈川姫にちなんだ地名とともに、いくつもの伝承も数多く残っています。また、『万葉集』に詠まれた「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉 求めて 得まし玉かも 拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき 君が 老ゆらく惜(を) しも」(作者未詳)の歌において、「渟名河」は現在の姫川で、その名は奴奈川姫に由来し、「底なる玉」 はヒスイ(翡翠)を指していると考えられ、奴奈川姫はこの地のヒスイを支配する祭祀女王であるとも考えられています。
このような相馬氏のヒスイが地元にあるのではないかという発想が知人に伝えられ、ヒスイの調査が行われました。そして小滝川でのヒスイの発見に繋がります。見つけられたヒスイらしき石は幾人かを介して東北大学に届けられ、研究者らによって詳しく調べられました。その研究成果が、昭和14年(1939年)岩石鉱物鉱床学という科学誌に河野義礼(かわのよしのり)博士による「本邦に於ける翡翠の新産出及その化学性質」として発表されます。このヒスイ発見の経緯については、フォッサマグナミュー ジアム上席学芸員の宮島宏博士が専門誌で詳しく解説されています(地質学雑誌 第116巻 補遺 pp143‒153、2010年)。
【ヒスイの保護】
ヒスイの発見が最初に発表されたのが岩石・鉱物の専門誌であったためか、考古学者たちが日本からのヒスイ産出の情報を知るまでには少し時間が掛かったようです。今なら新聞、テレビ、雑誌、SNSなどで一瞬にしてこの手のニュースは拡散すると思われますが・・・。しかし、戦後になってようやく郷土研究家、考古学者を中心にヒスイの文化的価値が急速に認識され、重要視されるようになりました。そしてヒスイ保護運動が高まり、昭和29年(1954年)2月に小滝川のヒスイが新潟県指定の文化財になります。このときの指定内容は「明星山下の硬玉岩塊」とされ、指定地域についてはあいまいでした。 県の文化財に指定された後も、県外の複数の者たちによって発破を仕掛けてヒスイ岩塊を持ち出そうと する騒動が起こりました。これを契機に地元でも保護か開発かでゆれる時期があったそうです。そして、 これらの騒動が収束し、昭和31年(1956)6月には国指定天然記念物「小滝川硬玉産地」となり、指定地域も明確にされています。
【小滝川ヒスイ峡(小滝川硬玉産地)】
小滝川ヒスイ峡へのアクセスは自家用車がお勧めです。残念ながら直接ヒスイ峡まで行ける路線バス等の公共交通機関はありません。新幹線の停まる糸魚川駅にはタクシーがありますし、レンタカーも利用可能です。もし、徒歩で行く場合はJR大糸線小滝駅から片道およそ60分の行程となります。いずれにしても道路事情は必ずしもよくありませんので、ネット等で事前に情報収集することが必須です。 筆者はフォッサマグナミュージアム学芸員の竹之内博士の車で小滝川ヒスイ峡を訪れることができました。
糸魚川は、過去に宝石学会(日本)の開催地になったことが2度あります(1992年と2002年)。 そのときのエクスカーションで小滝川ヒスイ峡を訪れる機会がありました。久しぶりではありますが、今回が3回目の訪問となりました。車で糸魚川市内から姫川沿いに国道148号線を南下し、JR小滝駅近くから県道483号に入り、山道を小滝川に沿って登っていきます。市内から小一時間走った頃、突然目の前に明星山の絶壁が現れます。明星山の岩壁は石灰岩からできており、ロッククライミングのゲレンデとして有名です。明星山は標高1188mで、岩壁の高さは500mもあります。明星山の西側にはややなだらかな傾斜の斜面があります。
植生も回りに比べてやや新しく緑鮮やかです。この部分は蛇紋岩です。蛇紋岩は水を吸うと膨張してもろくなる性質があり、この緩斜面は蛇紋岩の地すべりによってできた地形です。この緩傾斜地はその岩体の中にさまざまな種類の構造岩塊を含む蛇紋岩メランジュとなっています。小滝川ヒスイ峡のヒスイはこの蛇紋岩メランジュの中の構造岩塊として取り込まれたものです。地すべりによって蛇紋岩岩体が小滝川に滑り落ち、その後の侵食によって蛇紋岩が削り取られ、強固なヒスイだけが流域に残されたと考えられます。
ヒスイは低温高圧型の変成作用によって生成します。このような変成作用が生じるのは海洋プレートが 大陸プレートに沈み込んでいる場所(沈み込み帯もしくはサブダクションゾーンともいう)の地下20‒30kmと考えられています。沈み込み帯では冷たくなった海洋プレートが海溝の下に沈み込んでいくために、プレート同士が衝突して圧力が高いわりに他の場所より温度が低くなっています。最近の研究では、ヒスイの多くは橄欖(かんらん)岩が蛇紋岩化する際に関連した熱水溶液から生成したと考えられています。沈み込み帯では多量の海水を含む堆積物が海洋プレートとして地下深くに沈み込みます。 その際、橄欖岩が蛇紋岩へと変化する作用が生じます。それに伴って、局所的に蛇紋岩の割れ目に熱水溶液が発生し、ヒスイが生成します。このようなヒスイを含む蛇紋岩は回りの岩石よりも軽いため、大きな断層帯にそって上昇します。これが小滝川で見られるヒスイを伴う蛇紋岩メランジュなのです。◆