Gemmy 145 号 「小売店様向け宝石の知識「エナメル3」」
エナメル・THE ENAMEL 3
日本ではエナメルは七宝焼と呼ばれ、日本古来の焼き物と思われているようだ。しかし実はすでに紀元前1700年頃の古代メソポタミアや紀元前1500年頃の古代エジプトでエナメル宝飾品が作られており、遺跡からたくさんのエナメル宝飾品が発見されている。
ヨーロッパでは、ビザンチン時代にキリスト教の教会聖具にエナメル装飾が施されて盛んに生産されていた。当時フランスのリモージュ地方はエナメル加工の中心地として繁栄し、ここからヨーロッパ全域にエナメル宝飾技術は伝播していった。
東洋へはシルクロードを通って、中国・朝鮮を経て日本に伝わったと考えられる。中国では唐時代から七宝焼が見られ、明時代に盛んになり、その当時の技術が現在も温存され生産されている。日本では七宝焼は奈良時代の明日香村古墳の中から発見されており、正倉院南倉の御物なかに七宝焼が施された鏡などがある。この七宝焼デザインは、現在皇居の新宮殿に、これを模したものが壁飾りになって使われている。
ここで七宝焼の歴史について考察してみよう。七宝という言葉は仏教に由来する。仏教といえばインドである。古代からインドは宝石の宝庫であった。仏典によれば、十四種類の宝石があったことが記されている。古来、財宝の一番上の位置にあるのは金、銀であり、宝石の中では、サファイアが最高のあこがれであった。当時ダイヤモンドはずっと下位にランクされていた。何故ならダイヤモンドは硬すぎて研磨する方法がなかったからだ。ただし、ある方向に割れる劈開(へきかい)の性質は知られていたようだ。
そして、これらの多くの財宝・宝石の中から代表として七種が選ばれ、七宝(しっぽう・ただしくはしちほう)と呼び、これを人々は無上に尊んだのである。七宝とは、金、銀、瑠璃(るり)、しゃこ、瑪瑙(めのう)、琥珀、真珠などのことである。
仏典の一節には、「極楽浄土は、七宝の池あり八功徳水が充満し、底は金をもって敷けり。四辺には、金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、しゃこ、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)など七宝樹林に囲まれ、白色、赤色、青色、黄色など虹色に光り輝けり。極楽は、功徳荘厳なり」と記されている。釈迦は、人々が求める七つの財宝に托して、人の世の教えを導かれたという。七種の宝物(七宝)は仏教経典により差異がある。
古来日本では、金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)、真珠などは、宝玉・宝物・財宝ということで,今日的な宝石という意味ではないようだ。非常に珍しい物という意味で、七珍(しちちん)ともいわれる。因みに、わが国で宝石という概念が出てきたのは文明開化した明治以降で、その価値が世の中に次第に分ってきたのは昭和に入ってからだ。ほんとうに宝石とは何か、宝石の知識・情報が一般の人々に浸透し、宝石について基本価値が確立したのはここ過去60年間で、実に戦後からといえる。
わが国には、昔から石にはアニミズム(Animism)の対象として神霊が宿るという万有霊魂説があり、石の宗教があった。珍しい石を集め、床の間や神棚にお供えする習慣があったようだ。石は「いわう」を意味し、神を祭り祝うことがなまったものである。石の神は人の幸せをもたらす。「人」と「石」の縁起は昔から伝承されている。
さて、わが国の七宝焼は平安時代から中世まで作品はほとんど残っていない。桃山時代に入ると盛んに作られるようになり、慶長年間(1596~1615)、京都の平田彦四郎道仁は朝鮮半島の工人から七宝焼の技法を学んだといわれ、名古屋城のふすまの引き手、釘隠し、刀のつばなどに名作がある。平田道仁は、江戸幕府のお抱えの七宝師として刀剣小道具などの七宝装飾品の製作に活躍した。平田家は実子のうちのひとりだけに奥義を伝える門外不出の一子相伝とし、十一代にわたり、七宝焼の秘法を家伝として明治以降まで代々継承した。初代の道仁、通称彦四郎の名前は平田家代々に襲名された。近世の七宝は象嵌七宝がほとんどだが、平田家では模様の中に金線を取り入れて、有線七宝〔クロワゾネ〕にあたる技法や、透明な釉薬を新しく使い、当時としては革新的技術を独自開発していた。
十代目平田彦四郎道仁は、明治政府から特注を受け、日本の七宝勲章第一号の旭日章を鋭意製作し、その出来栄えは素晴らしかった。現在のメダル・バッジの七宝技術発展に大きく寄与した。またその後の七宝焼ジュエリーへの道を拓いた功績は大きい。
「楽しいジュエリーセールス」
著者 早川 武俊